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悲しい色やね

雨がよく降りますね。

春の雨なのに結構激しく降っています。 今年も大きな水害があるのでしょうか

妻、多恵子が亡くなって今日で1か月です。

まだ、何かの間違いじゃないかと思ってます。

職人さん達と仕事をしている時はいいのですが、一人で働いていると多恵子の事がすぐ浮かんできて参ります。

気持ちを切り替えるために、思いの丈を書いてみようと思いました。

卵巣ガンと11年半、寛解した乳ガンとの戦いを含めると16年の闘病でした。

2005年の秋に乳癌を見つけ、早期だったのでステージはⅠ。オペも無事終わり、その後の化学療法(抗がん剤)で髪の毛は抜け落ちましたが、術後経過も良好でした。 私が多恵子と同じように坊主になったのを覚えておられる方もいるでしょう。

4年後の2009年春ごろから腫瘍マーカーが上がってきました。 乳癌の再発が疑われ、何度も胸部CT、MRIを受けペット検査も3回受けましたが、病巣がわからず、秋にはマーカー値が19000を超えました。

11月に下腹部のCTを受けて卵巣癌(乳ガンの転移でなく全く別の癌)が見つかりました。 その時には既にステージ4になっており、1回目の余命3か月宣告でした。

卵巣、子宮の全摘手術を受け、化学療法で又、毛が抜けました。(私も2回目の坊主)

この時、早く下腹部を検査していてくれたら違う結果があったと思ってしまいます。

抗がん剤が効き、余命3か月をクリアしましたが、1年後、腹膜播種が見つかります。

再発ガンは再びの余命3か月です。

オペで摘出した腹膜は、黒カビだらけの雑巾のようでした。

同時期に入院していた先輩は肺癌で、同じように余命3か月で翌2011年の1月末にお亡くなりになりました。

多恵子はこの時もクリアしてくれました。

放射線治療、化学療法で約2年半が過ぎ、2013年5月に再再発。

今度は小腸と十二指腸と胃の隙間にできているとの事。

多恵子の落ち込みは酷く、うつ状態になり大変でした。

6クールの化学療法の後で、がんの摘出オペとなり、翌2014年1月手術。

その後も癌との闘いは続き、毎年、入退院を繰り返す生活でした。

3年前には左耳の三半規管の横に転移して左耳が聞こえなくなり、馬尾に転移して長い距離や人込みを歩くときには杖を使うようになりました。

昨夏は脊椎に転移、北野の放射線施設が新設工事中で関電病院へ治療に通いました。

年末、脳幹の横に転移。今年の正月4日から国立循環器病センターでガンマナイフ治療。

それも成功したのですが、2月8日に入院してからは前のブログで書いたとおりです。

2月下旬に意識がほぼなくなり、3月中旬からは呼び掛けても反応しなくなりました。

コロナ禍でしたが、毎日病院に通い、手足のマッサージや好きだった玉置浩二君や斎藤和義君、高橋真梨子、ちあきなおみ、そして中島みゆきの「糸」を聞かせたりしておりました。

癌性髄膜炎は厳しいようで、髄液の中に癌細胞が播種しているようです。

長男の脳腫瘍の時の主治医に聞くと、覚悟しなあかんと言われました。

体力もなくなっていたのでしょう。 4回目の奇跡は起きませんでした。

でもね 誤嚥性肺炎を起こしたと言われたんです。

意識朦朧となってからは水も飲ませていなかったんです。

唾液などの分泌物でも誤嚥すると言われましたが、無くなった3月29日の昼に私が行った時は血中酸素が90を切り、脈拍が150を超え、呼吸が40を超えて、100mを走った後のように苦しそうだったんです。

その時、看護師さんから原因がわからないと言われました。

仕事を抜けて見舞っていたし、コロナ禍でずーっと居るわけにいかず、仕事に戻り、夕方帰宅すると主治医から電話があり、今夜が山だから直ぐに来てくださいと。

行くと 誤嚥性肺炎を起こしました です。

誤嚥性肺炎って高齢者はよく起こすんちゃいますか。

まして3月初めから、起こすから飲み食いできないと注意されてたんでしょ。

家で起こすなら処置、治療が遅れるのは 分かりますが、入院してたんですよ。

昼に行った時、原因が判らない ってそれはないでしょう。

プロなら想像力をもっと働かせて判らなアカンよなぁ。

卵巣癌が見つかった時と言い、今回と言い、医師はもっと患者と患者の家族に寄り添ってほしいと思います。

コロナ禍で医療従事者が大変な中、頑張っているのは重々承知していますが、敢えてお願いいたします。

多恵子は本当によく頑張ってくれました。

私は無理を言ったかなぁと後悔しています。

凄い人で、自分が闘病中なのに多くの友達を励ましていました。

我が家の過去帳には23人のガン友の名前が書いてあります。

亡くなったのを後から聞いて、命日が判らない方もいらっしゃいますから、30人以上の方を励ましていたと思います。

それもあり、コロナで面会できなかったので普通の通夜、告別式を行ったところ、100名以上の方が参列してくださいました。

九重親方や中村勘三郎が癌で亡くなった時には「男のくせにもっと頑張らんかいな」 と言ってました。

池江璃花子ちゃんには「そんなに頑張らんでもいいのに」 と言ってました。

男性アスリートが泣いたりすると「男が泣くな」と怒ります。

今年の箱根駅伝の創大の最終ランナーには厳しかったなぁ。

私もいつまでも泣いていると愛想をつかされます。

前でも上でも向いて顔晴らなあきません。

最後に長い間エールを送ってくださった皆さん、本当にありがとうございました。

2021年4月29日 高橋克廣

 

 

 

 

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